引用(いろんな人たちのツイートより)
・津和野…さすが森鴎外と安野光雅の故郷、人口7,000人の町ではありえない文化レベルの高さ。カフェや酒蔵も多いし、イエズス会系高校出身としてはカトリック教会も外せない。(2022/6/24ところてんさんのツイート)←イエズス会のマークがバッチリ入った白い美しい教会の画像付き
・萩教会の初代主任司祭はフランス人ビリオン神父、1889~1924の35年間萩、津和野、山口で宣教。後この地区と広島地方はドイツ管区のイエズス会司祭に託された。萩二代目主任司祭はドイツ人ヴェッケレイ神父。
・津和野藩が「浦上四番崩れ」時に一番多く信徒を預かったんですよね。
※浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な隠れキリシタン(キリスト教徒。当時のキリスト教は禁教であり犯罪行為であった)の摘発事件である。長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件浦上崩れの4度目。1867年(慶応3年)、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。間もなく江戸幕府は瓦解するが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされた。木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。
※帰郷 1873年(明治6年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた。
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隠れキリシタンのことは教科書で習ったことがあったけど、(殺されるよりは取りあえず踏み絵だけ踏んどけばいいのに、神様だってそれは許すよ…たぶん)という感想だった、私。やはり、信仰とはいろんな意味で凄いのですね…。
こんなにも辛い思いをして信仰を守り故郷に帰り、浦上に浦上天主堂を建てたキリスト教徒たち。そこにめがけて原爆を落とすとは…😢 イエスという人が実在の人物なのかどうかははっきりしていない様ですが、同じ宗教同志なのに、派が違うプロテスタント勢がカトリック教徒を、ということですよね…。(無垢な信仰のある人達が犠牲にになるほうがチカラになるから? 恐怖😱 ) 信じることの尊さと狂気をみる気がします。
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